自然の美しさについて

なにか感覚的にわかったような気がした。

そもそも、自然っていうものはかならずしも美しいわけじゃない。
そのなかから、美しいと思える形や仕組みを意識的に、あるいは無意識に選び取るという選別のフィルターが入っている。選び取ることのできるバリエーションがものすごく多様であるから、美しいと感じる頻度も高い。

先日書いた「悪役らしさ」でその代表のように名前を挙げたfoaは、機能やコンテクストなどのパラメーターを自然に習った複雑なアルゴリズムを用いて建築に変換する手つきや、選択しているアルゴリズムやパラメーターのセンスと建築細部にいたる徹底のさせ方に魅力があると思うけど、その結果出てくる外見への美醜の判断については突き放しているといえるし、本人たちも度々そう発言している。彼らにとっての美はアルゴリズムや矛盾のなさにあるともいえる。


建築に話を限定しなくとも、「自然な」「ナチュラルな」「自然のような」など、形容詞や形容詞的比喩として表現されるとき、しばしば「自然」のようにみえることを指していて、かつそのことに価値を置いている場合があるように、その本質がたとえ自然ではなくともかまわない。というよりも、むしろ本当に自然であれば野蛮とされる。

例えば、
ナチュラルメイク → 何もしていないように見えるようにメイク
自然体 → 無欲で飾らないように自分を律している

これらの文脈では自然が美しいといっているわけではなく、美しく自然であろうとする意志やそれを実現するための努力と当然その結果の度合いに美を見ているといえる。

アルゴリズムによって導き出された結果をどう使いこなすかという手法では、どうしても生のままの自然が見えすぎてしまっているようにも思える。

とはいっても、爽快感と気持ちよさを実現しているfoaの横浜客船ターミナルはやっぱり好きな建築だし、その質を実現しているものが彼らの設定するアルゴリズムとフィニッシュをあえて生のままに留めておく態度から出てきているなら、そんなことは置いておけばいいんだろうけど、なにかがひっかかる。

今の時点でわかるのは、複雑なものを複雑なまま見せても面白くないということ。そのまま見せてしまうのはやっぱりどこかで倫理を放棄することになる。(だけれども、単純化してそつなくまとめてしまうのも現代の感覚ではないようにも思う)

そうだとすると、foaのターミナルやコールハースY2kの手つきはクローン人間を喜々としてとして造り上げるマッドサイエンティストにも似て、可能であれば行けるところまで行くというある種の美学があるけものの、どこかグロテスクさを放つ。そこに「悪役らしさ」を感じる理由がありそうだ。つまり、悪役とヒーローを分つのは行動や思考のアルゴリズムではなく、倫理の違いによっているといえるのではないか。