冬のソナタ

先週の日曜日はひさしぶりに一日だらだらしたあと、まとふたりで自転車に乗って前から地図を眺めていて気になっていた山に登った。


山といっても標高40mくらいの山すそには小さな敷地いっぱいに建てられた家が密集していて、そのあいだを縫うように頻繁にクランクするほそい道が通っている。道がおかしな方向に変わるところには緑に囲まれた大きな家が小さな家に埋められるように垣間見え、そこだけ周りとは違う穴のような空気感をつくりだしていた。


頂上には、お稲荷さんが谷を見下ろす道の脇にぽんと置かれるように建っていて、そこがエッジになっていることを表現しているようだった。山を登りきった尾根道にはたぶん戦前からの商店街が現れてきて、山すそから突然切り替わった下町のような雰囲気を納得させてくれた。このあたりはきっとこの商店街から徐々に拡大していったひとまとまりの集落だったんだろう。



山から下りてきたあと、夕食を食べにドミールの前からバスへ乗って新宿へ出かけた。新宿に着くころには僕らをいれて4人だけという密度が低くすこし肌寒い車内から、ターミナルからはじまる賑やかな密度や、すこし涼しくなってるけど蒸し暑かった昼の感じが残ってる遅い夕方の駅前との落差が気持ちよかった。


先月から何度も約束していて行けなかったタイ料理屋で、あるかもしれないという冷やしトムヤムクンをさがしたがやっぱりなくて、普段は食べないスープを頼んだけどあまりおいしくないと思った。そのかわり、蛙とタイ茄子の辛炒めはおいしかった。まが唐辛子をかじってしまって動けなくなってるあいだにうっかり食べ過ぎてしまい、もう一品食べようと思っていたのをやめてデザートにすることになった。


デザートを食べているときに冬のソナタというドラマの話しになって、そのおかしさを少ししゃべりすぎた。ファンタジーを本物だと信じて楽しんでいるのが子供だとすれば、ああいったファンタジーをうそと分かっていながら楽しめるっていうのを大人というのかと思った。それに対して設定や情況の矛盾にいちいち突っ込んだり笑ったりしているっていうのは子供じみているなと思いながらバスを待ってるときに、まに聞いて始めて気付いた小田急百貨店の壁面のグラデーションをあらためて見てみて感想をしゃべった。



バスを降りてからお酒を買いにコンビニに立ち寄った。お酒を持って歩いてるのは典型的な変な人のビジュアルだと気付いたので、結局お酒は散歩してから買うことにして、コンビニを出てドミールの裏の坂道から川沿いに歩いた。ドミールについたら誰もいなかった。


たまたまやっていたオレンジデイズを途中から見ていたらなかなか良かった。主人公の部屋と大学のキャンパスが何度も出て来て、その二つの場所が中心となって物語が展開している感じが印象的で、ヒロインは喋られないらしく手話を使っていて、相変わらずベタな設定だと思ったけど、そんなことどうでもいいと思えるようないい雰囲気だった。


初めは不自然だと思った手話という設定が、ジェスチャーや感情をおどろくほど豊かにしていて、塚本さんが青木淳の建築を批評したときに、バスケやサッカーのルールを例えに、形式が不自然でもその不自然さが気にならないくらいすばらしいシュート(ダンクやオーバーヘット)を見せることができれば、そもそもの不自然さは美しいものを生み出すための前提として納得されるという話しや、青木さんが形式と自由について、形式が不自由でも形式から出たところでそこにまた別の形式があるだけで、むしろそれを徹底的に解釈し、その中で考えることでしか自由なものは生まれないというようなことを書いていたことを思い出した。


気持ちのよさそうなキャンパスだったのでどこの大学だろうと思って見ていたら武蔵大学と東洋英和学院だった(どっちかは分からないです。誰か教えて)。10時からのウルルン滞在期もなかなか面白かった。



そのあと地図を眺めていたら、夕方登ったのは目的の山とはちがう隣の山だった。なんだかファンタジーのような一日でした。