本家と分家

今朝はこの記事がダントツ
「ようこそ先輩」で母校を間違えて訪問 アサヒコム
小学校間違えたっていうのは面白すぎました。


そんなに戦中は混乱していたのかと見てみると、間違って訪れた瑞穂小学校というのが近辺の小学校のいわば本家にあたり、そこから数校が分離独立し、さらにその一つから分離して荒川氏が卒業した御劔(みつるぎ)小学校が独立する。

荒川修作は1936年7月6日生まれ。御劔小学校が分離したのは昭和6年(1931年)で、出生時には既に存在しており、当時の国民学校も今の小学校と同じ6歳からみたいなので昭和18年(1943年)、戦争真っ只中の年に入学していることになる。そして、御劔小も瑞穂小も空襲で全焼している。そのとき荒川さんは3年生で卒業は昭和24年(1949年)。なにもなければだけど。空襲で焼け出されて学校は疎開したようで(本人も疎開したかは不明)、校舎が復旧するのが昭和23年。卒業する年度だ。家族の転居などで学区が変わっていたかもしれないし、それ以前に小学校どころじゃなかったのかもしれないとも思うので、まあ記憶の中で重要ではなくなっていてもおかしくはない。


で、一件落着だと思ったら、関連する小学校のサイトに掲載されている沿革の表現が微妙に食い違ってて、ますます面白くなってきた。
瑞穂小学校の沿革史
弥富小学校の歴史
御劔小学校の沿革史
高田小学校の歩み
汐路小学校の紹介
堀田小学校の沿革
広路小学校のあゆみ


荒川氏の母校は公式サイトでは高田小学校から分離と記述されており瑞穂小との関係については触れていないが、瑞穂小学校のサイトでは御劔小学校もそこから分離したと書かれている。一方、高田小学校のサイトを見てみると、瑞穂から独立し、さらに御劔小を分離したことが確認でき、御劔小も瑞穂小にルーツがあることがわかる。


食い違いがあるのは、瑞穂のことまでは触れてない御劔小の年表と、直接分離したわけではない御劔のことまで分離したとわざわざ書いている瑞穂小のそれ。(もちろん、たとえば堀田小のように瑞穂と高田から分離したのと同じように瑞穂の一部が御劔へ分離されたのかもしれないが。)


自身の伝統や地域における本校であることに意識的な瑞穂小は、地域の中でもそう認知されていて、荒川さんの意識の中にも残っていたのかもしれない。戦災で混乱していたというのが最も妥当なところだろうけど、そこから地域における小学校ごとの存在感もふくめて伝わってくる。


まあくだらないといえばくだらないけど、学区も地域の盛衰というか人口にあわせて人間の血縁のように分離していく構造があったり、それぞれの意識の違いがあったりして面白い。それになにか小学校自身が地域の歴史や構造を想像するきっかけをあたえてくれた。そして、この中では新しい汐路小学校のサイトでは開校年の記載しかないことも、若い小学校があまり自分の歴史にまで関心がないことが現れているようで、それも人間みたいだと。


瑞穂小学校周辺の地図(付近に御劔、高田、汐路小学校も確認できる)Mapfan

さらに広域の地図 北東に広路小、南西に堀田、南東の弥富公園の斜め左下にある小学校に弥富小が確認できる Mapfan

直接関係ないが弥富小は瑞穂より歴史があり、江戸時代の寺子屋をルーツとしている。その弥富が広路や瑞穂の分校になったり改称が何度もあったりとどうしてこんなに流転の人生を歩むことになったのか。明治時代の弥富とはどんなところだったのか。こうなってくると古地図が見たいなー。