アリクイと熱帯魚

solte2005-08-01

たぶん疲れてるだろう彼を元気付けてくれるようなアイテムがふさわしいと、sの誕生日のためにプレゼントを買いに出かけた。なんでもありそうなコンランショップでいろいろ眺めながらアロマやティーカップなんかも候補に挙がったけど、かめもぼくも、これはきっといまのsの気分じゃないと思って一回りして戻ってきた幼児コーナーで、はじめにふざけて見ていたぬいぐるみの理屈抜きのかわいさにはかなわないと、アリクイのぬいぐるみに小さなねずみをぶら下げてプレゼントにした。

なんだかとてもいい買い物をした満足感を久しぶりに味わった二日目の休日。そのあとは4年ぶりくらいの友人と呑み。ものすごく力の抜けたゆるい沖縄食堂で食べた小さな熱帯魚がおいしかった。

ぜんぜんかんけいないけど→迷子になったアリクイ

中と外のズレ

外壁サッシの割り付けと室内側の小部屋の部屋割りとは完全に一致することは、がらんどうのオフィスでない以上むつかしく、どうしてもサッシと部屋の間仕切りがクランクして取り付く部分が発生してしまう。

そんなことをやっていて、必要な場所に必要な大きさの開口部をあけ、今風のランダムな開口部を作成してみるも、お堅い施設の性格にふさわしくないという至極妥当な理由でもって上司にあっさりと却下されて以降は、整然と割り付けられた外壁パターンに真剣に向き合ってみる。

が、今回のように全体面積と各室面積が予算上決められていて、面積のズレがそれぞれ10%という要求があるがために、サッシに合わせようと無数にある数平米の小部屋を大きくしたりプロポーションを変えたりすることも難しく、とはいうものの、そうなってしまうのが気持ち悪くて何とかしてそろえようと思案するもどこかで破綻する。

全く気にしないであっさりとクランクさせてしまう上司の「アアルトもやってるよ」に、確かにそうなんだろうけど、でもやっぱりなんとかしたいんです。

なんとかならないかと、今回のように整然とした外部と複雑な内部が矛盾しない、外壁と室内との間にクランクするためのスペースを始めから持ち併せているような形式がありえるかと考えているうちにだんだん面白くなってきたので久しぶりに書きました。そもそも揃えることを前提としない余剰の部分が剰余のまま何か別の形式を生み出してくれれば成功。整っているけどズレている建築。

もちろん、今回はひたすら揃えるのみ。

本家と分家

今朝はこの記事がダントツ
「ようこそ先輩」で母校を間違えて訪問 アサヒコム
小学校間違えたっていうのは面白すぎました。


そんなに戦中は混乱していたのかと見てみると、間違って訪れた瑞穂小学校というのが近辺の小学校のいわば本家にあたり、そこから数校が分離独立し、さらにその一つから分離して荒川氏が卒業した御劔(みつるぎ)小学校が独立する。

荒川修作は1936年7月6日生まれ。御劔小学校が分離したのは昭和6年(1931年)で、出生時には既に存在しており、当時の国民学校も今の小学校と同じ6歳からみたいなので昭和18年(1943年)、戦争真っ只中の年に入学していることになる。そして、御劔小も瑞穂小も空襲で全焼している。そのとき荒川さんは3年生で卒業は昭和24年(1949年)。なにもなければだけど。空襲で焼け出されて学校は疎開したようで(本人も疎開したかは不明)、校舎が復旧するのが昭和23年。卒業する年度だ。家族の転居などで学区が変わっていたかもしれないし、それ以前に小学校どころじゃなかったのかもしれないとも思うので、まあ記憶の中で重要ではなくなっていてもおかしくはない。


で、一件落着だと思ったら、関連する小学校のサイトに掲載されている沿革の表現が微妙に食い違ってて、ますます面白くなってきた。
瑞穂小学校の沿革史
弥富小学校の歴史
御劔小学校の沿革史
高田小学校の歩み
汐路小学校の紹介
堀田小学校の沿革
広路小学校のあゆみ


荒川氏の母校は公式サイトでは高田小学校から分離と記述されており瑞穂小との関係については触れていないが、瑞穂小学校のサイトでは御劔小学校もそこから分離したと書かれている。一方、高田小学校のサイトを見てみると、瑞穂から独立し、さらに御劔小を分離したことが確認でき、御劔小も瑞穂小にルーツがあることがわかる。


食い違いがあるのは、瑞穂のことまでは触れてない御劔小の年表と、直接分離したわけではない御劔のことまで分離したとわざわざ書いている瑞穂小のそれ。(もちろん、たとえば堀田小のように瑞穂と高田から分離したのと同じように瑞穂の一部が御劔へ分離されたのかもしれないが。)


自身の伝統や地域における本校であることに意識的な瑞穂小は、地域の中でもそう認知されていて、荒川さんの意識の中にも残っていたのかもしれない。戦災で混乱していたというのが最も妥当なところだろうけど、そこから地域における小学校ごとの存在感もふくめて伝わってくる。


まあくだらないといえばくだらないけど、学区も地域の盛衰というか人口にあわせて人間の血縁のように分離していく構造があったり、それぞれの意識の違いがあったりして面白い。それになにか小学校自身が地域の歴史や構造を想像するきっかけをあたえてくれた。そして、この中では新しい汐路小学校のサイトでは開校年の記載しかないことも、若い小学校があまり自分の歴史にまで関心がないことが現れているようで、それも人間みたいだと。


瑞穂小学校周辺の地図(付近に御劔、高田、汐路小学校も確認できる)Mapfan

さらに広域の地図 北東に広路小、南西に堀田、南東の弥富公園の斜め左下にある小学校に弥富小が確認できる Mapfan

直接関係ないが弥富小は瑞穂より歴史があり、江戸時代の寺子屋をルーツとしている。その弥富が広路や瑞穂の分校になったり改称が何度もあったりとどうしてこんなに流転の人生を歩むことになったのか。明治時代の弥富とはどんなところだったのか。こうなってくると古地図が見たいなー。

「景色に気をとられて」

琵琶湖の西岸を走る湖西線での出来事がなぜか気になった。
アサヒコム6月5日 湖西線でのオーバーランを伝えた記事
JR湖西線小野駅へは行ったことがないけど、地図で見る限り
mapfan web:滋賀県志賀町小野湖青1丁目
は、ホームから200mほど向こうに湖面が見える距離で、
当日の天気は晴れていて風も少し吹いていた。
気象庁
太陽の方角も、
国立天文台
ちょうど駅から真東のあたりにあり、きっと風の吹く湖面がきらきらきらめいている感じだったんだろうな。と、思う。

事故があってからオーバーラン自体がニュースになる(=問題視される)というおかしな風潮になってしまっているおかげで、こういう情景をイメージさせてくれて、ふだん気に留めていなかった場所について知るきっかけになったとすればそれはそれでいい気分転換にはなるんだけど、
そもそもシステム自体にヒューマンエラーを促す欠陥があるにもかかわらず、その欠陥を精神力でカバーさせようとするコンセプトが、日本社会の根っこの部分にあるんじゃないかと、小学生のころゼロ戦ヘルキャットの設計思想の違いを知って愕然とした気分を思い出した。

そしてまたケータイの重量バランスからくる上下のとり違いのことに頭は戻ってくる。

社会に生かされている感覚

最近ありさんと飲むといつもこの話になる。
個人の政治的態度が社会にどう反映さるか、あるいは反映される可能性に希望を持てるかという感覚の違いについて。

おんなじ意見に落ち着くことはないとわかっていても、つい話しはじめると意見の一致点を探し始めてしまってしゃべりすぎてしまう。ありさんは世代の(といってもほんの数年なんだけど)違いというが、そうなんだろうか。バブルの終焉を目の当たりにした世代と、終わってしまった後に気がついた世代との間には、終戦に立ち会った人と以後に生まれた人のような違いがあるのか、さらにそれが政治的態度と結びつくのかどうかはもう少し考えたい。

あるいは、バブル後の世代のようにいわれた僕らがボジティブに見えるのは、単にまだ若いからというだけなのかもしれないけど、とも思った。

重量の配分

結局買ったのはvodafone802SH。
PHSも候補にして見ていたんだけど、これが今購入できる機種の中では一番なじんだ。
若干手に持ったときに滑り落ちるような不安定さは感じるけど、細部まで良くつくりこまれていてデザインにも破綻がなく目地とか面の処理も含めて安っぽくない。操作感もしっとりしているし、液晶の美しさはさすがというか、他社の携帯にはない感じ。

15日に書いたヒンジについてはこの機種も同様で、どう見ても猫背に見えてしまうんだけど、開いたときにやや前傾させることで見にくさは抑えられていたのが救い。ただ、この傾斜も強すぎて使いにくくなってる機種もあるが。あとヒンジのところのスピーカーが形状とマッチしていてかつ美しく仕上がっているところが気に入った。千鳥に配置された穴が中央の列に向かうほど大きくなっている。


この携帯を使い始めて特に意識させられたのが、手に取ったときの重量の配分。
もちろん内部の構造によって左右されるのはわかるけど、いつも上下を間違えてしまう。
ということはつまり、手にとって開こうとしても開かないことになり、一度携帯に拒まれてさらに持ち替えるという二つの余計な動作を使用者に強いていることになる。

こういうちょっとした重量の配分や触覚における上下の感覚のズレに対して真剣に取り組んでくれれば、ずいぶん使いやすくていい携帯になると思う。手に取ったときの気持ち良さや操作感の良さが美しさにつながっているような爽快感がほしい。